日本の親が子どもを「モノ」扱いしてしまう、根本的な理由(ITmedia ビジネスオンライン) – Yahoo!ニュース

By | 6月 16, 2018

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日本の親が子どもを「モノ」扱いしてしまう、根本的な理由
6/12(火) 8:15配信
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親子心中が減って、児童虐待が増えた背景
「もうおねがいゆるしてゆるしてください おねがいします ほんとうにもうおなじことしません ゆるして」
痛ましい悲劇に全米は泣かなかった
先週、両親からの「しつけ」という名の虐待によって亡くなった船戸結愛(ゆあ)ちゃん(5)が朝4時に起きて書かされていた「反省文」が公開され、日本中が深い悲しみに包まれた。
父親はかねて結愛ちゃんに暴力を振るっていて書類送検されるという「前科」があった。東京・目黒へ転居してからも近所の人たちは、結愛ちゃんがベランダに放置されたり、顔にあざをつくったりという虐待を目撃しており、ちゃんと児童相談所へ通告もしていた。
にもかかわらず、誰も彼女を救えなかった。遺体はあばら骨が出るほど痩(や)せ、自力でトイレに行くことができなかったのでオムツをつけており、近くには嘔吐(おうと)した形跡もあったという。
こういう痛ましい事件が起きるたび、「なぜ助けられなかったのか?」という声が瞬間風速的にわっと盛り上がる。今回注目されているのは、「警察との連携強化」や「児童相談所の人員強化」というオペレーション面の改善だ。
香川の児相から引き継ぎを受けた品川児相が2018年2月、担当者がアパートに訪れていたものの、母親から「かかわってほしくない」などと門前払いにされた後、警察に連絡をせずに「リスクの判断」をしている間に、結愛ちゃんは亡くなったからだ。
元警察庁で児童虐待の現状に詳しい弁護士の後藤啓二氏は、6日のプライムニュース イブニング(フジテレビ)に出演し、「完全に救えた命」として児相の対応を批判。この原因は、案件を抱え込み他機関の介入を嫌うセクショナリズムだと切り捨てた。これに対して、「児相もしっかりやっているけど、圧倒的にマンパワーが足りないんだ」という擁護論もでている。
ただ、個人的には、このあたりの改善をどんなに行っても、結愛ちゃんのような犠牲者を減らすことはできないのではないかと危惧(きぐ)している。
「定時退社デー」をつくってもサラリーマンの労働環境がちっともよくならないのと同じで、現場のオペレーションをちょちょっとイジったところで、それを運用する人々の意識を変えないことには、事態はなにも改善しない。
●「子どもは親のモノ」という考えを破壊すべし
では、どう意識をかえるべきかというと、我々日本人が物心ついたころから刷り込まれている「子どもは親のモノ」という考えを根本から破壊するのだ。
「はあ? オレはそんなこと1ミリも思ったことはないぞ!」と顔を真っ赤にして怒り狂う親御さんも多いと思うが、これまで日本社会が「子ども」に対してどんな仕打ちをしてきたかを振り返れば、我々に「子どもを親の所有物としてとらえる国民性」があるのは明白だ。
それを最もよく象徴するのが、「親子心中」だ。
親が後に残された我が子を不憫(ふびん)に思って道連れに――みたいな痛ましい事件が周期的に発生するので、日本人の多くはこれを現代社会特有の悲劇みたいに受け取っているが、そんなことはなく、正確には「日本人特有の病」のひとつだ。
もちろん、親子心中はあらゆる国、あらゆる文化で確認される。例えば米国では、よく錯乱した父親が家族全員を銃で撃ち殺して、最後に自分も銃口をくわえる、という悲惨なケースも珍しくない。
だが、日本が特殊なのはその扱いだ。
多くの国では、血がつながっていても自分と異なる他者の命を奪う犯罪行為であり、そこにどういう事情があろうとも美化や正当化されない。それに対して日本では、「罪」の意識が希薄で、周囲からも「そこまで追いつめられた親も辛かったんだろうね」なんて同情の声も出てくる。
そのあたりの特殊性は、今から30年以上前に米国で起きた「心中論争」が分かりやすい。
●痛ましい悲劇に全米は泣かなかった
1985年1月、カリフォルニア州サンタモニカの海岸で、32歳の日本人主婦が、4歳の息子と6歳の娘を道連れにして入水自殺をして、自分だけ一命をとりとめた。
心中の原因は夫の浮気。保護された女性は、取調官に「子どもだけを残して死ぬことは心配でできなかった」などと供述したという。
我々の感覚では、「痛ましい悲劇に全米が泣いた」みたいな反応を想像するだろうが、当時の全米は腰が抜けるほど驚いた。その衝撃を、現地メディアのヘラルド・エグザミナー紙がこんな風に報じている。
「米国では母親が愛情から子供を殺すことは極めてまれ。あったとしてもそれは憎しみからで、狂気のさたか、身勝手な残虐行為として非難される。ところが、日本では親子心中が年間四百件もある。しかも、自分だけ死ぬより、子を道連れにする母親の方が慈悲深いとされる」「これは日本社会では就職、結婚などのさい、以前、親のない子が差別される風潮があるからだ」(読売新聞 1985年3月15日)
また、海外メディアがデマをまき散らしやがってと怒りに震える方も多いかもしれないが、この指摘はそこまで大ハズレではない。例えば、年間400件というのは82年に桃山学院大社会学部の飯塚進助教授(当時)が日本で親子心中が「異常に多い」ことに着目して、調査を行った結果である。
「昭和五〇年から五十五年までの六年間に、全国で二千五百五十五件(年平均四二五・八件)の親子無理心中が起きている。一日平均一・一七件」(読売新聞 1982年12月30日)
子を道連れに自殺する母が社会的評価を受けるというくだりも、外国人が日本の刑法をみればそう解釈するのも無理はない。米国刑法では、第一級殺人は懲役25年か終身刑、今回のように子ども2人を殺めれば死刑になる可能性が高い。が、日本の判例をみれば、子殺しをした米国の死刑囚らが、うらやむような「超温情判決」がでる。
「親子心中で親だけが生き残った場合の刑罰は懲役三年以下だが、子供を失ったことで十分な制裁を受けたとして、執行猶予がつく場合が多い」(読売新聞 1985年3月15日)
●「子どもを虐待してはいけない」と言い始めた背景
日本では親が子どもの将来を案じて、命を奪うのは悪いことではないとされている――。そんな風に米国人が受け取ってしまうほど、「親に甘い社会」なのだ。
当初、検察は計画殺人として米国刑法にのっとって厳罰に処する方針だったが、日本同様に「執行猶予」となったのである。「三万余の嘆願書と日本人心情が米裁判官を動かした」(読売新聞 1985年12月16日)のである。これは裏を返せば、米国の司法が、「親子心中」は他国が口を挟んではならない日本人特有の「文化」だと認めたに等しい。
確かに、「親子心中」は日本独自の現象かもしれないが、それが「子どもを親の所有物としてとらえる国民性」のせいだというのは暴論だ。そんな声があちこちから飛んできそうだが、日本の児童虐待史を振り返れば納得していただけるのではないだろうか。
最高視聴率62.9%の国民的ドラマ『おしん』(NHK)を想像してもらえば分かりやすいが、近代の日本で「子ども」とは、間引く、殴る、働かす、売り飛ばす、が当たり前の扱いで、それらの虐待を乗り越えた者が「立派な大人」になれると信じられていた。
欧州ではフランス革命のあたりから「子どもの権利」がうたわれ、米国でも1909年にホワイトハウスで第1回全米児童福祉会議が開催されているが、日本ではそういう動きは起きなかった。
国が「子どもを守れ」とようやく言いだしたのは昭和8年(1933年)、「児童虐待防止法」が制定されてからだ。この年は、満州国をめぐって国際社会で孤立が始まり、陸軍が少年航空兵制度を始めた年でもある。つまり、「子どもは大事なお国の戦力」となって初めて「親であっても殺すほどいじめちゃダメだろ」という声があがってきたのだ。
●子どもを自分のモノとしてとらえている
では、なぜ日本は子どもの人権が軽く扱われてきたのか。そのあたりを同年に発行された『児童を護る』(児童養護協会)のなかで、東京帝国大学教授の穂積重遠氏はこう分析をしている。
「親が自分の子供のことを始末するのだから、それにどうもあまり立入ることは宜しくあるまいといういふことで、この親権といふものに遠慮していたといふことが、少なくともこの児童虐待防止法といふものが今まで制定されたなかつた一つの理由ではなかったらうか。斯う思ふのであります。(中略)この時計は私の所有物であるといふののと同じやうな意味で、子供は親の所有物だといふやうな意味から、親の権利として親権といふものが認められるやるになつて来たに相違ないのであります。沿革上は確かにさうであります」(『児童を護る』児童養護協会 33ページ)
もうお分かりだろう。日本人にとって長く子どもは「親の所有物」だったのである。「所有物」だから平気で間引くこともできたし、売り飛ばすこともできた。「所有物」だから自分が生に絶望をしたときにちゅうちょなく道連れにできたのだ。
昭和14年(1939年)に発行された『児童愛護思想並児童保護施設普及に関する参考資料』(中央社会事業協会)のなかの、「親子心中に関する調査」によると、昭和2年(1927年)7月から昭和10年(1935年)6月までの8年間で親子心中は1735件、亡くなった子どもの数は2700人にものぼっている。1年で337.5人の子どもが親に殺されていたわけだ。
そう聞くと、「この時代は極貧世帯も多くて生きる希望がなかったんだ」という人もいるが、その指摘は必ずしもあてはまらない。親子心中の理由として「生活困窮」は460件とトップだが全体の26%に過ぎず、ほとんどは「家庭不和」(322件)、「精神異常」(298件)など現代社会とそれほど変わらぬ理由が並んでいる。
●親子心中が減って、児童虐待が増えた
つまり、「子どもは親の所有物」という日本の伝統的親子観は、平成の世にも脈々と受け継がれている可能性が高いのだ。
確かに、「親子心中」は戦前の年間200件、80年代の400件に比較するとかなり減少している。この問題に取り組んでいる「子どもの虹情報研修センター」の川崎二三彦センター長が『サイゾーウーマン』(2016年8月2日)で語ったところによると、2000年代の10年間について、18歳未満の子どもを道連れにした心中事例を新聞報道を基に調べたところ、395件、被害児童は552人に上っていたという。
だが、これで日本の親の「子どもをモノ」としてとらえる「病」が克服できたと判断するのは早計だ。「親子心中」が減っていくのと反比例するかのように今度は児童虐待が増加しているのだ。厚生労働省の統計によると、「児童虐待」は90年に1101件だったものが、この25年間で10万件超えと100倍に増えているという。
児童虐待問題を扱う人々は「親子心中」を「親による子殺し」として虐待の一形態とみている。つまり、親子心中という虐待が減ったのは、その分だけで暴力やネグレクト、言葉いじめなど直接的な虐待に流れている、と見ることもできる。
つまり、自分が苦しくてもう死でしまいたいという欲求に、子どもという所有物を付き合わせていた親が減った代わりに、今度は、自分の苦しさや、行き場のない怒りをモノに当たるように、子どもにぶつけて憂さ晴らしをしている親が増加しているのだ。
私は絶対に違う。子どもを自分の所有物だなんて思っていない。多くの日本人は胸を張って言えるかもしれないが、海外からみれば我々ほど子どもを「モノ」扱いしている国はない。分かりやすいのが、タバコだ。
昨年10月5日、東京都議会で「子どもを受動喫煙から守る条例案」が成立した。これは、子どもがいる家庭や、自動車の中での禁煙を努力義務とした条例だが、構想がでた段階では、『東京新聞』など日本を代表するリベラル論壇から「治安維持法の再来だ」「監視社会の到来」など怒りのクレームが殺到した。
これは、「子どもは親の所有物」という思想が根強く残る社会だからこそ生まれた極めてユニークな発想である。親とはいえ、子どもにタバコの煙を強制的に吸わせるのは「虐待」というのが、世界では常識だからだ。
例えば、親であっても子どものいる自動車内で喫煙することを罰則付きで禁じているのは、米国ではカリフォルニア州やオレゴン州など8つの州、オーストラリア、カナダ、イングランド、フランス、バーレン、キプロス、モーリシャス、南アフリカ、アラブ首長国連邦など例を挙げればきりがない。
だが、そういう話をしても日本人の多くは「家庭のことに国が口出しをするなんて」という声があがる。今回の品川児相が親から文句を言われて引き下がったように、この国では子どもの安全より、「親の権利」を尊ぶという近代日本から続くカルチャーがまだ延々と続いている。
親に養ってもらっている「所有物」なのだから文句など言わず、親が吸っているタバコの煙を吸い込むべし。そんな伝統的親子観に、リベラルと呼ばれる人々でさえいまだとらわれていることが、この「日本人特有の病」の根深さをよく物語っている。
●今本当に必要なのは
今回、さまざまな問題提起がされるなかで、警察が結愛ちゃんの「反省文」を公開したことについて、「子育てに悩む親を余計に追いつめて問題の根本的な解決にならない」という意見を目にした。
パッと見、リベラルで斬新な考え方のような印象を受けるかもしれないが、筆者から言わせると、戦前からなんの変わり映えもしない「子どもは親の所有物」に基づく考え方である。
「児童虐待」は子育てや生活苦に悩む「弱い親」が行ってしまう。だから、そんな弱い人々を社会全体で手厚く支えてやることが解決の道である――。
専門家が触れ回るこの手の話も、少し冷静に受け取れば、そこに「虐待される側」の視点が抜けていることに気付くはずだ。我々は病んだ社会にどっぷりと浸かっているせいで、「親」に手を差し伸べることばかりに執着し、いまだ子どもを「親の付属物」としてとらえている自覚がないのだ。
他人事ではない。私もついカッとなって子どもに手をあげたことがある。そういう悩める親同士の苦しさは、『クローズアップ現代』とかで扱えばいい。こういう悲劇を防げなかったのは我々ひとりひとりの責任だ、みたいに問題を社会に分散させるのもなんの解決にもならない。
今本当に必要なのは、結愛ちゃんのような子どもをこれ以上出さないために、近代日本から続く、「子どもは親のモノ」という呪いのような常識を壊すことではないのか。
香川で保護されたとき、結愛ちゃんは「パパ、ママいらん」と言っていたが、結果としてそのまま自宅に送り返された。100年以上、「親中心主義」だった我々が「子ども中心主義」に移行するのは容易なことではないが、それをやらないといつまでも「子殺し」という悲劇が繰り返される。
まずはこの厳しい現実を受け入れ、虐げられた子どもの言葉に目をそらさず、真摯(しんし)に耳を傾けることから始めるべきではないのか。

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